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故傷(ふるきず)――ヒュウガ





あれから1週間以上が経った。

ユイのキズはめきめきとよくなり、どうにか起き上がれる位にまでなった。 もちろん、ヒュウガの治療とユイ本人の意志の力によるものである。

驚いた。こんなに早くキズが塞がるとは。ヒュウガは密かに舌を巻いた。
ただ、あまりユイには感謝されていないようだった。まあ当然と言えば当然だ。 彼は診察のたびに彼女にクギを刺しているのだから。

「くっくっくっ……楽しみですね。」
その度に、彼女は物凄い眼で睨み付けてくる。はっきり言って、ヒュウガは すぐに意地になる彼女の反応を面白がっていた。


「この分なら、気を付ければシャワーぐらい浴びられますよ。どうしますか?」

「え?」
ユイは眼をパチクリさせた。予想外の言葉だったらしい。
彼女のこの可愛い反応に、ヒュウガはついイタズラ心を起して、彼女を からかってしまう。

「……体臭も、それはそれで興をそそりますがね……。」
「浴びるわよ!」
珍しく素直だ。少し言い過ぎたかな。
でも、全く反省のないヒュウガだった。



―――初めは、食べさせるのさえ苦労した。ユイが毒やクスリを 盛られているのではないかと警戒したからだ。この状況では仕方がないかとも 思ったが、このまま病気になられては困る。申し訳ないなと思いつつ、 ヒュウガはユイに言った。

「警戒するのは構いませんがね。体力を付ける必要があるのでは ありませんか? 私を楽しませるためにもね。貴方も簡単にヤラレたら つまらないでしょう?」
カッとしたのだろう。ユイの顔が朱に染まる。彼女の眼が 「いつか殺してやる。」と言っていた。
「別に、何も盛っていませんよ。お互いベストの状態でなければゲームに なりませんからね。」

―――ユイは大人しく食べ始めた。





また一週間が経過した。ユイはなんとか歩き回るくらいに回復した。
ヒュウガとユイの態度は相変わらず。ヒュウガはユイを小馬鹿にし、ユイは ヒュウガを憎んでいた。

この日、ヒュウガは珍しく忘れ物をした。
彼が部屋に戻ると……

バサバサバサ!

……扉の向こう側で何かが崩れ落ちるような音がした。
捕まってしまったのか?
ヒュウガの身体に緊張が走る。彼は息を殺してそっと扉を開け、中の様子を 覗った。

ユイが本を拾って机の上に乗せている。
何だ。本が落ちたのか。彼はほっと胸を撫で下ろした。


もちろん、ヒュウガがユイを匿っていることは中央も気付いている。 そのための盗聴器だ。裏切り者をいち早く発見するために、その身分に 関わらず各部屋に仕掛けられている。
ただ、ヒュウガの部屋に無断で入り込み彼女を捕えるほどの度胸のある者が、 ソラリスにいないというだけのことである。また、彼女はヒュウガの 裏切りの証拠とはならない。その点について彼は狡猾だった。


ユイの動きが止まった。一冊の本を手に取ったままで。

そして、彼女はページをパラパラとめくりはじめた。
ソラリス語が読めるのか? まずいな。
ヒュウガは彼女の背後に忍び寄った。


ユイは熱心にページをめくっている。気付いてはいないようだ。
「赤い印が付けてあるのが急所として、この青い印は何かしら。」
彼女は独り言をつぶやいていた。


少し脅しておく必要があるな。

「……失うと二度と取り戻せない場所ですよ。例えば、眼ですかね。」
ユイが驚いたように振り向いた。こんな時間に来るとは思っても いなかったのだろう。
そのままヒュウガはスタスタとユイに近づき、彼女を壁際に追い詰め、彼女の 身体のある部分を指差した。

「……さらに、ここ。ここを砕かれると、どんなに腕の良い医者でも 元の状態には戻せない。一生、私を恐れ恨みながら生きることになる。 くっくっくっ。」
「それは禁じ手だわ!」ユイが抗議した。その声は微かに震えていたが。

「禁じ手……。なるほど、よくご存知でいらっしゃる。」
あと一歩だな。
ヒュウガは、ユイの腕を強い力で引くと素早く抱え込むように左腕と胸の間で、 ユイの首と頭を固定した。ちょうど左腕で首を絞める形で。
「どうやら、急所についてもお詳しいようですね。貴方のために、一つだけ 講義を致しましょうか?」

首を絞める力を少しだけ緩め、右手でユイの急所の一つに触れる。

「ここを斬られると、酸素が行き届かなくなるために、まず脳細胞が 破壊される。派手に血は吹き出すが、それほど苦しむことはない。」

それから指をほんの少しだけずらす。

「だが、ここを斬られた場合は違う。意識はハッキリしているから地獄の 苦しみだ。斬られた者は、喉をかきむしり絶命するまでもがき苦しむ。 くっくっくっ。」

脅しの効果はあったようだ。ユイの身体がガタガタと震え、それが自分の腕に、 胸に伝わってくる。

「……こそ泥みたいな真似は止めなさい。」
戒めを解くと、彼女はその場にへなへなと座り込んだ。
「一応、本を片づけようとしていたみたいですから、これぐらいで勘弁して あげます。やることがないのなら、大人しくしていた方が身のためですよ。」
ユイは、いつまでもそこにうずくまり震えていた。

ヒュウガはその場から立ち去った。





―――夢―――

ズタズタに引き裂かれた残骸の海。
朱色の泉に人のかけらが漂う。

地獄だ……。

「何を恐れている! 今までお前が斬り捨ててきた者達ではないか。」
目の前で首が笑っていた。鮮血を滴らせて。

「私は殺りたくて殺っていた訳ではない!」
「そんな手前勝手な弁解、お前に殺された者達には通用しない。」
血まみれの手が、身体に絡み付き始める。
おびただしい数の手。捕まれた部分から恨みの深さが伝わってくる。 恐ろしい力だ。握り潰されてしまいそうに。

「お前もすぐに仲間入りだ。」
「ぐ……うう……。」
手足が全く別な方向へ引っ張られる。

「う……ああ……。」
四肢が引き抜かれかけていた。

―――ずぼ!



「はぁはぁはぁ。」
ヒュウガは飛び起きた。



人がソファーの後ろに隠れるのが見えた。おそらくユイだろう。
まずいところを見られたようだな。さて、どうしたものか。

ヒュウガはユイの隠れているソファーに真っ直ぐに近づいた。
上から覗くと陰で彼女が震えていた。

やはり。

ユイの目の前で、ヒュウガは右手を胸に当て片膝を突き軽くお辞儀をした。 まるで宮廷の挨拶のように。
「おや、これはこれは。わざわざ私に食われに来たということですか?」

「な……。」
自分の慇懃無礼な挨拶に、彼女は呆れて声も出ないらしい。
「光栄ですね。立ちなさい!」
そのままユイの腕を掴み、彼女を立ち上がらせた。
「は……放して!」
彼女は腕を振り解こうと懸命に抵抗する。

「くっくっく。」
ヒュウガはそんなユイの胸の辺りを軽く叩いた。
「痛いでしょう。そんな身体ではまだヤるのは無理ですね。」
彼女の顔が苦痛に歪む。猛烈な痛みが彼女を襲ったのだ。

「苦痛に歪む貴方の顔は、なかなかそそるものがあるんですけどねぇ。」
わざと好色そうに言ってやる。彼女の眼差しが軽蔑へと変化した。

「放して!」
ユイは掴まれていた腕を振り解くと、急いで部屋に戻った。よほど 恐ろしかったのか、それとも軽蔑のあまりか、彼女の一連の動きは速かった。

あまりに可笑しくて、ヒュウガはつい笑ってしまった。





何事も無く日々が過ぎていく。
ユイは軽い運動くらいは出来るようになったようだ。



ヒュウガがいつも通りに戻ってくると何かが違っていた。

いったい何が? 何が違う?
それはユイの視線だった。今までの軽蔑するような目つきと違い、どこか 同情するような暖かさがあったのだ。

ん、これはどうしたことか?
ヒュウガは戸惑ってしまった。長いこと、こんなに暖かい瞳を向けられた ことがないからだ。あまりの暖かさに、思わず縋ってしまいそうになる。 忘れていた母の温もり……。
ヒュウガはギリギリのところで自分を律すると、彼女の視線を避けるため別の 部屋に逃げ込んだ。

バタン!
こんなことで動揺するとは私らしくない。
ヒュウガは閉じた扉に寄りかかり、上を向いて深いため息を吐いた。





あの日を境にユイの態度が変わった。

恐れ、憎しみ、怒りの感情を彼女は示さなくなった。どんなに脅しても 透かしても、彼女は悪戯っ子を見るような優しい瞳を自分に向ける。
時々、彼女は何かを言いたそうな顔をする。言わなくても、だいたいの検討は ついている。だから言わせない。請われても自分は実行することが 出来ないから。引き揚げるには、それなりの成果がいる。それまで、あと もう少し時間がかかる。本国を納得させるためのものを手に入れるまで。

それにしても彼女の態度はおかしい。今までと全く辻褄が合わない。何かに 気付いたのか? このままではまずいな……。
ヒュウガはある決心をした。





数日後

パタン
ユイは分厚い医学書を閉じ、深いため息を吐いている。医学書という本を 読んでいたにも関わらず、彼女の表情は何かを確信したようであった。
ヒュウガは息を殺し、その様子をじっと覗っていた。

やはり読まれてしまっていたのか。もはや潮時だ。彼女は危険過ぎる!

「……そういうことですか……。」
声を掛けると、ユイはビクッ!と震え、そのまま凍り付いた。

“ギリリ!”
ヒュウガはユイの腕を後ろにねじ上げると、ユイの顔が歪み、 彼女の肩もグキッと悲鳴を上げた。
「こそこそ嗅ぎ回るなと言ったでしょう。」
手際よくユイの両手を後ろ手にして縛り上げる。

「な……何をするの?」
彼女は何が起きているのか、全く信じられない様子だ。そうだろう。一時でも 私というものを信頼してしまったのだから。
「そろそろカタを付けようと思いましてね。」
彼女は振り返り、縋るような瞳で訴え続ける。やめて、と。

「卑怯者! 話が違……うぐっ。」
ユイは猿轡を噛まされて、やっと事態の深刻さを把握したようだ。
「卑怯者? くっくっく。貴方だって、私が卑怯者だと端からご存知だった でしょう? では、そろそろ参りましょうか。つかの間の楽園へとね。」
扉を開け、後ろから小突くと、前へ歩き始めた。外へと向かって―――。

これは賭けだ。勝算は充分にある。誰も私を制止することはない!