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故傷(ふるきず)――ヒュウガ





カツン、カツン、カツン
2人で長い長い廊下を歩く。

ドックまでの道のりが永遠に続くように思われる。気が焦る。
それでも、急いではならない。自分は今、この哀れな子羊を生け贄にせんと する狼なのだから。それ以外の意図を他人に悟られてはならない。もちろん、 この子羊自身にも。

時折すれ違う人々が、彼女に同情と哀れみの眼を向け、薄笑いを浮かべながら 歩く自分に対して軽蔑の眼差しで見る。
それでいいのだ。
ユイはうな垂れ、自分に小突かれながら渋々と歩いている。

目で合図をする者がいる。彼か……。

「このお嬢さんは良くなったのか?」
「ええ。だから自分好みに料理しようかと思いましてね。」
「そうか、がんばれよ!」

裏の意味を読み取り、どっちとも取れる会話をしてくれる。いい男だ、 このドクターは。
そのドクターに向かってユイが顔を上げて睨み付けた。憎々しく。今にも 噛み付きそうに。

彼はまったく動じずに、ユイの顎を人差し指で持ち上げて言った。
「言っておくが、お嬢さん。この男はこう見えても優しい男だ。せいぜい、 この男に優しくしてもらうんだな。あんたはきっと、心からこの男に 感謝するぜ。あはは。」





「ヒュウガ様。いったいどちらへ?」
警備員らしき兵隊が、訝しそうにユイを見た。

「子ネズミを一匹捕まえたのでね。」
「侵入者ですね。ならば中央の方へお連れ下さい。」
相手が守護天使だろうが、規律には従ってもらう。そんな感じが見て取れた。 だが、私は従うわけにはいかない。

「この女は私の『獲物』だ。私の手で直々に処分する。私流のやり方でね…… くっくっく。」
これで分からないようなら、少し痛い目を見てもらわなくては。
兵士はしばし呆気に取られ、そして、言っている意味が分かったのか 同じような薄笑いを浮かべた。
「お通り下さい。」

よかった……。





“どん!”
ユイを後部座席に放り込み、エンジンをかける。
「外へ出ますよ。ソラリス内では色々と邪魔が入る可能性がありますからね。 お楽しみは邪魔の入らないところで……ゆっくりと……ね。」
言いながらユイを見ると、彼女はプイっと横を向いた。

エンジンの轟音が一際大きくなり、機体が浮き上がった。



彼女はずっと外を眺めていたようだ。じっと身動きもせずに。





シュー−ッ!
着いた。



ヒュウガは扉を開け、またもや乱暴にユイの身体を放り出した。地面に倒れる ユイ。

“シュ”
ヒュウガはユイの身体の上に片膝をつき、動けないように押さえつけ、彼女の 縄と猿轡を切る。
うつ伏せの状態でユイは肩をすくめていた。

切り終えると、ヒュウガはすぐさま彼女の身体から離れた。無用な戦いを 避けるためにだ。彼女と戦うために、ここへ連れてきたわけではないのだから。

彼女はゆっくりと上半身を起し、こちらを見ていた。不思議そうな顔をして。

「貴方の持ち物です。持って行きなさい。どこへでも好きなところへ。」
パシン!
彼女は呆然としたまま、両手で短刀を受け止めた。
当然だろう。このまま逃がしてもらえるとは思ってもみなかったはずだからな。

「どう…して……?」
今はまだ明かす時期ではない。無駄だ。たとえ理由を話したとしても、 今までの私の罪が許されるわけではない。ならば、偽りの真実を与えよう。 今までの経緯に相応しい理由を。

「何故か? ……気が変わったんですよ。薄汚れたシェバトの女なんぞ 抱いたら、こちらが汚れてしまいますからね。」

ユイの眼が一瞬見開かれた。それから、表情がどんどん柔らかいものに 変わって行く。本来の彼女のものに。
そうか、この人はこんな風に微笑むのか……。時代が許していたら、私達の 関係もまた違ったものになっていただろうに。

「私の気が変わらないうちに、さっさと行きなさい!!」
ヒュウガの言葉に、ユイはペコリと頭を下げると背を向けて歩き出した。

彼女の口が何か言っているように見えた。














「結局、ケロイド状に残ってしまいましたね。まだ未熟者だったにも関わらず、 貴方の治療をしたから。全く申し訳ないことをしました。」
薄暗闇の中、シタンが傷痕に優しく触れた。

「いいのよ。貴方は出来る限りのことをしてくれたわ。あの時代の中で。」
ユイがシタンの気持ちをやんわりと受け止める。

「私が斬りさえしなければ、こんなことにはならなかった。」
「でもね……。」
「でも?」
シタンが身を起した。

「でもね、私。逆に感謝しているのよ。本当の貴方を垣間見ることが 出来たから。」
「本当の……?」
ユイがシタンの瞳を見て、にっこりと微笑んだ。
「そう、本当の。」

シタンが再び横になった。
「まいったなぁ。やっぱり気が付いていたのか。いつから?」

「……忘れたわ。確信したのは逃がされた時よ。あの時は、何だか別な理由を 言っていたけど。本当は、最初から逃がすつもりだったんじゃない? どうしてあんな風に振る舞っていたの?」
「え? 今更言う必要はないでしょう。もう済んだことだし。」
「知りたい……貴方の口から聞きたいの。」


“ゴクリ”
唾を飲む音がした。


「……あの頃の私は『力』が欲しかった。個人的な能力ではなく、 『権力』という強大な力が。そのためには、どんなに醜悪な事でもやった。 そうすることで良心を麻痺させたかったのかもしれない。だが凶悪に 振る舞えば振る舞うほど、敵も増え、監視の目も厳しくなった。」

「貴方が監視……されていたの?」

「そう。危険過ぎたのでしょう。私の行きそうなところには、私室を含めて ありとあらゆるところに盗聴器が仕掛けられていた。航空機やギアの中に さえもね。」

「盗聴器……何故?」

「私を失脚させる為の証拠を掴むためですよ。何でもいい。一つの 真実さえあれば、残りはでっち上げればいいのだから。ゆえに私は隙を 作るわけに行かなかった。貴方を助けたくてもね。他の者は誰も信用できず、 ああいう形でしか貴方を匿うことが出来なかった。随分と酷いことを したでしょう。」

「ううん。気にしていないわ。」

「……敵方の貴方に信頼されるということは、すなわち私の失脚、最悪の 場合は死を意味していた。だから脅し続ける必要があった。また、 匿っている理由を度々口に出し(盗聴器を通して)彼らに聴かせておけば、 貴方を連れ出す時に邪魔が入る可能性が低くなりますしね。まさか、そのまま 逃がすとは思わないでしょう。ふふ。」

「あれは私じゃなくて、彼らに言っていたの。」

「半分はそう。ただ、あまり嗅ぎ回って欲しくはなかったなぁ。貴方の態度が 変わった時は、正直言ってゾッとしましたよ。もうここには置けないと貴方を 追い出したわけですから。この答えで満足ですか?」

「ええ。」

「私としては。」

「うん?」

「いや、何でもない。もう寝よう。」







……もう少しだけ一緒にいたかったんですけどねぇ……