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故傷(ふるきず)――ユイ





あれから1週間以上が経った。

ユイのキズはめきめきとよくなり、どうにか起き上がれる位にまでなった。 もちろん、ヒュウガの治療とユイ本人の意志の力によるものである。
ただ、キズの治り具合を見ると称して、1日1回胸元をヒュウガに晒さねば ならないことが苦痛だった。首すじから胸、腹の辺りまで舐めるように 見られる度に、全身に鳥肌が立つ。また、止めを刺すように、ヒュウガは必ず 舌なめずりをして言うのだ。

「くっくっくっ……楽しみですね。」
この言葉を聞くたびに、ユイは「ケダモノ。いつか殺してやる。」と心の中で 叫ぶのが日課になっていた。


「この分なら、気を付ければシャワーぐらい浴びられますよ。どうしますか?」

「え?」
ヒュウガの言葉は予想していなかった。そういえば、今まではキズに障る からと、タオルを与えられていたのだ。服も軽く一枚羽織っていただけ。

「……体臭も、それはそれで興をそそりますがね……。」ヒュウガは ニヤニヤしている。
「浴びるわよ!」
もう10日以上も髪を洗っていない。正直言って、気持ちが悪かったのは 確かだ。ただ、自分をあくまでも慰み者としてしか見ていないヒュウガの 口振りには腹が立った。診察のたびに唇を舐めるのも。この男の興など そそってたまるか!とユイは思った。

「替えの衣類は、この袋の中にあります。ソラリス製の服で申し訳 ありませんがね。」
「どうやってこれを?」ユイが眼を丸くした。
「裏のルートでいくらでも調達できますよ。ただ、私が女を囲ったと思われて いるようですがね。まあ、似たようなものでしょう。いずれ、私のものに なるのだから。くく。」
また、唇を舐めた。いやらしい。

「あと、汚れ物ですが、こちらが洗濯機。こっちが乾燥機です。部屋の中で 洗濯をされるのは本意ではありませんが、まさか、私のものと一緒に ランドリー係に出す訳にも行きませんからね。これからは自分でやって 下さい。」
心なしかヒュウガの顔が赤くなったようにも見えた。
まさかね、と思いつつ、使い方をヒュウガに教わり、シャワーを浴びた。

“シャーーー”
久々に、身も心もすっきりする。ケダモノに触られた部分は、全て洗い流して しまいたかった。さすがにキズの付近は無理だったが。さっぱりとした ところで、ヒュウガの物言いが引っかかった。
『……体臭も、それはそれで……』
そんなに匂ったのかしら? なんだかんだと言ってても彼女も女性である。 少しだけ恥ずかしくなったユイであった。





また一週間が経過した。ユイはなんとか歩き回るくらいに回復した。
ヒュウガとユイの態度は相変わらず。ヒュウガはユイを小馬鹿にし、ユイは ヒュウガを憎んでいた。

ヒュウガは食事の時と夜しか戻って来ない。ユイは退屈していた。それでも まだ鍛練できるほど回復している訳ではないのだ。
とりあえずは、ゆっくりと身体を動かしてみる。身体が重い、そして固く なっている……ちっとも思い通りに動かない。

ズキ!
まだ痛い。あっ!

バサバサバサ!

身体の何処かがかすったらしい。机の上に積まれた本が、まとめて落ちて しまった。
あらら……。このままにしておく訳にもいかないわね。本が傷んじゃうし。
ユイは仕方なく落とした本を拾い始めた。

本をこんなに読んでいるのかしら。ユイは非常に不思議に思えた。
日頃のヒュウガの品のない言動と、この大量の書籍に埋もれる読書家の イメージが、どうしても一致しないのだ。
本の内容を確認したくても、ユイにはここの文字がほとんど読めない。 話すことぐらいなら彼女も出来るのだが。現に2人のやり取りは、ほとんど ソラリス語で行っている。ヒュウガにシェバト語で話し掛けても、何故か、 彼は徹底してソラリス語で返してくる。話自体は通じているから、彼も シェバト語は理解している様なのだが。理由はよくは分からない。

ある本がユイの目に留まった。
絵の雰囲気からして医学書のようだ。何気なくページをパラパラとめくると、 どのページにも何らかの書き込みがしてある。

何が書いてあるのかしら……。
さらにページをめくると人体図があった。ここにも印と書き込みがしてある。
印をされている場所には、ユイにも心当たりがあった。「急所」――生命に 関わるため、絶対に攻撃してはいけない場所。彼女も父親と祖父に叩き 込まれた。武術と一緒に。絶対に狙うなと……。
しかし、ヒュウガは真っ先にそこを狙ってくる。相手を確実に仕留めるためだ。

やはり、ヒュウガは人間として大切なものを欠いていると、彼女は思った。
「赤い印が付けてあるのが急所として、この青い印は何かしら。」
ユイは独り言をつぶやいた。



「……失うと二度と取り戻せない場所ですよ。例えば、眼ですかね。」

え?

振り向くと、後ろにヒュウガが立っていた。壁に寄りかかり、両腕を組んで。
気が付かなかった……。
ヒュウガはスタスタとユイに近づき、彼女を壁際に追い詰める。彼は、 彼女の身体のある部分を指差した。

「……さらに、ここ。ここを砕かれると、どんなに腕の良い医者でも 元の状態には戻せない。一生、私を恐れ恨みながら生きることになる。 くっくっくっ。」
「それは禁じ手だわ!」ユイが抗議した。

「禁じ手……。なるほど、よくご存知でいらっしゃる。」
ヒュウガは、ユイの腕を強い力で引くと素早く抱え込むように左腕と胸の 間で、ユイの首と頭を固定した。首が絞まる……。
「どうやら、急所についてもお詳しいようですね。貴方のために、一つだけ 講義を致しましょうか?」

首を絞める力が少しだけ緩んだ。ヒュウガの右手がユイの急所の一つに触れる。

「ここを斬られると、酸素が行き届かなくなるために、まず脳細胞が 破壊される。派手に血は吹き出すが、それほど苦しむことはない。」

さらに指が、ほんの少しずれたところに触れる。

「だが、ここを斬られた場合は違う。意識はハッキリしているから地獄の 苦しみだ。斬られた者は、喉をかきむしり絶命するまでもがき苦しむ。 くっくっくっ。」

この男は……そのために医学を学んでいるのか。恐ろしい。どこまで 狂っているのだろう。ユイはゾッとした。

「……こそ泥みたいな真似は止めなさい。」
突然、戒めが解かれた。
「一応、本を片づけようとしていたみたいですから、これぐらいで勘弁して あげます。やることがないのなら、大人しくしていた方が身のためですよ。」
ユイは、いつまでもそこにうずくまっていた。震えが止まらない。





数日後の深夜。

ユイは異様な気配で眼を覚ました。
「ぐ……うう……。」苦し気な呻き声が聞えてくる。
息を潜めて意識を耳に集中する。

どこ……。
どうやら隣の部屋から聞えてくる。
恐る恐るユイはドアを開けた。暗闇の中で目を凝らしてみる。

誰……?
呻き声はヒュウガの口から漏れていた。大分うなされているようだ。
なに……? 悪夢に怯えているの?

「う……ああ……。」

ガバ!
ヒュウガが飛び起きた。慌ててソファーの陰に隠れるユイ。

暗闇の中でヒュウガはニヤッと妖しい笑みを浮かべると、ユイの隠れている ソファーに真っ直ぐに近づいた。

見つかってしまった。ユイはぶるりと震えた。
「おや、これはこれは。わざわざ私に食われに来たということですか?」
ユイの目の前で、ヒュウガは右手を胸に当て片膝を突き軽くお辞儀をした。 まるで宮廷の挨拶のように。

「な……。」
「光栄ですね。立ちなさい!」
そのままユイの腕を掴み、彼女を立ち上がらせた。
「は……放して!」
「くっくっく。」
ヒュウガは軽くユイの胸の辺りを叩いた。

“ズキン!”
猛烈な痛みが彼女を襲う。

「痛いでしょう。そんな身体ではまだヤるのは無理ですね。」
ヒュウガは唇を舐めた。好色そうに。
「苦痛に歪む貴方の顔は、なかなかそそるものがあるんですけどねぇ。」

「放して!」
ユイは掴まれていた腕を振り解くと、急いで部屋に戻った。今までいた 部屋からは、ヒュウガの勝ち誇ったような笑い声が聞えてきた。
あんな男を心配して様子を見に行ったなんて。ユイは情けなさと悔しさの中で 床に就いた。

……でも、あの男は確かにうなされていたわ。恐いものなど無いものと 思っていたのに。一体何に怯えて……?
ユイは眠りに就いた。





何事も無く日々が過ぎていく。
体力が日に日に戻ってくる。軽い運動くらいは出来るようになった。 体調がよくなれば退屈するのが普通。ここに閉じ込められてから1ヶ月近くが 経過しているのだ。

ユイはこっそりとヒュウガの本を読み始めていた。

きっかけは偶然の出来事だった。
またまたひっくり返してしまった本を片づけているうちに、 「ソラリス−シェバト用語辞典」を見つけたのだ。同時に 「シェバト−ソラリス辞典」も。
ソラリス人向けの辞書なので、ユイにはかなり読みにくかったが、それでも 両方を駆使すればなんとか意味だけは読み取れる。とりあえず、本の タイトルの解読から始めた。何日も時間をかけて。

分子化学、分子工学、量子物理学、ギア工学、解剖学、精神医学、 外科治療、等等……。
どれを取っても、ユイにはちんぷんかんぷんだった。
ただ、心理学はともかく、哲学と精神世界に関する本も多数あるのが 意外だった。

どういうことかしら……。ユイはいたく興味を引かれた。
読み進めてみると、やはり所々にアンダーラインが引いてある。辞書と 首っ引きで内容を解読するユイ。やがて顔を上げて得心する。
この人は、もしかして……。

ユイは確認のため、慌てて本をひっくり返し、以前見た医学書を捜す。 うろ覚えの上、蔵書が多すぎるためにどうしても見つからない。
「どうして、こんなに本があるのよ!」

捜し出せないうちに夜になる。とりあえずユイは散らかした全ての本を 元通りに片づけた。



ヒュウガがいつも通りに戻ってきた。冷笑を浮かべて。
ただ、ヒュウガを迎えるユイの眼だけが違った。今までの軽蔑するような 目つきと違い、どこか同情するような暖かさが含まれていた。

“お帰りなさい”
彼女は眼でそう言った。口に出すのは憚られたのだ。それはまだ確信が 持てないから。
だが、ヒュウガは明らかに戸惑っていた。

バタン!
彼は表情を強ばらせたままユイの前を素通りして、そのままもう一つの部屋に 篭ってしまった。





この日を境に、ユイはさり気なくヒュウガを気遣うようになっていた。 あくまでさり気なくではあるが。
それにヒュウガも気がついているのか、あからさまな嫌がらせが少なくなった。
時々、何かを言いたそうにじっとこちらを見ていることがある。
ユイは2人の間に何かが生まれるのではないかという気がした。

この人が変わってくれたら、シェバトは……と、この微かな希望に 縋るようにさえなっていた。





数日後、ユイはあの本をやっと見つけだした。

急所の部分を再び調べる。やはり……。
書き込みの内容は、主に絶命までにかかる時間と相手の受けるであろう 苦痛の度合いが書いてあった。それに従って優先順位が付けてある。 「ここは避けるべき。」「真っ先にここを狙うこと。」「逃がすつもりなら、 ここ。」など。
これだけなら、ただの危険人物であるが。
さらに調べてみると、再起不能になりかねない部分は「絶対に避けるべき。」 と書いてあった。乱暴に書き殴られ判別不可能な文字をどうにか読むと 「生ける屍とするくらいなら、いっそ……。」という意味の言葉が 書かれていた。

パタン
ユイは本を閉じ、ため息を吐いた。
間違いない。ユイは確信した。

「……そういうことですか……。」
背後から冷たい声が響く。今までに聞いたことの無い程の冷たい声が。
さっきまでいなかったはずなのに。
声の冷たさにユイが凍り付いた。

“ギリリ!”
ヒュウガはユイの腕を後ろにねじ上げた。ユイの顔が歪み、肩がグキッと 悲鳴を上げる。
「こそこそ嗅ぎ回るなと言ったでしょう。」
ヒュウガは手際よくユイの両手を後ろ手にして縛り上げた。

「な……何をするの?」
今までとは違う。氷の仮面を付け、眉一つ動かさない。この男に何が 起きたのか。
「そろそろカタを付けようと思いましてね。」
カタを付けるって、これではあまりに一方的すぎる。

「卑怯者!! 話が違……うぐっ。」
ユイは猿轡を噛まされて、最後まで言うことが出来なかった。
「卑怯者? くっくっく。貴方だって、私が卑怯者だと端からご存知だった でしょう? では、そろそろ参りましょうか。つかの間の楽園へとね。」

ヒュウガはユイを後ろから小突き、前へと歩かせ始めた。外へと―――。