TOPへ戻る 目次へ戻る 前へ

故傷(ふるきず)――ユイ





カツン、カツン、カツン
2人で長い長い廊下を歩く。

時折すれ違う人々が、後ろ手に縛られ小突かれ歩かされている自分を、同情と 哀れみの眼で見る。皆、これから自分の身に何が起こるのか知っているのだ。 そんな眼で見られるのが彼女にとって一番辛かった。この男の慰み物になる ことよりも何よりも。
一時でも、この男を信じた自分が馬鹿だった。所詮、この男は悪魔だ。ただ 気まぐれに生きる希望を与えておいて、一気に地獄へ突き落とす。そんな男 なんだ。あれは私の錯覚だったのか?!

“クックック”
時折、ヒュウガの忍び笑いが聞える。どうせまた、舌なめずりでも しているのだろう。



「このお嬢さんは良くなったのか?」
「ええ。だから自分好みに料理しようかと思いましてね。」
「そうか、がんばれよ!」

なに?! 大声で平然とこんな会話をするなんて信じられない。がんばれ、 なんてどういう神経をしているの?
ユイは思わず顔を上げて、見知らぬ男の顔をまじまじと見た。時がその顔に 過ぎ去った歳月の長さを刻み込んでいる。それとは対照的な抜け目の なさそうな眼。

彼は、ユイの顎を人差し指で持ち上げて言った。
「言っておくが、お嬢さん。この男はこう見えても優しい男だ。せいぜい、 この男に優しくシてもらうんだな。あんたはきっと、心からこの男に 感謝するぜ。あはは。」
猿轡を噛まされているため、舌を噛み切ることも出来ない。ユイは悔しさに 血が逆流する思いだった。



「ヒュウガ様。いったいどちらへ?」
警備員らしき兵隊が、訝しそうに自分を見、声をかけた。

「子ネズミを一匹捕まえたのでね。」
「侵入者ですね。ならば中央の方へお連れ下さい。」
兵士の言葉は当然である。身元や、侵入ルートなどを尋問する必要が あるからだ。
この男の手から逃れられるのなら何でもいい、たとえ自分を待ち受けるものが 拷問だろうと処刑だろうと。

しかし、ヒュウガは薄笑いを浮かべて言った。

「この女は私の『獲物』だ。私の手で直々に処分する。私流の やり方でね……くっくっく。」
兵士はしばし呆気に取られ、そして、言っている意味が分かったのか 同じような薄笑いを浮かべた。
「お通り下さい。」

ユイの最後の希望が……消えた。



“どん!”
航空機の後部座席に放り込まれた。エンジンが唸り声を上げる。
「外へ出ますよ。ソラリス内では色々と邪魔が入る可能性がありますからね。 お楽しみは邪魔の入らないところで……ゆっくりと……ね。」
ユイの身体を舐めるような視線を送りながらヒュウガは言った。

エンジンの轟音が一際大きくなり、機体が浮き上がった。

ユイはずっと外を眺めていた。もう2度と見ることはできないだろう。 この卑怯者の手にかかって自分は……。
いきなり視界がぐにゃりと歪んだ。どうやらゲートを通過したらしい。
しばらくすると緑の大地が近づいてきた。この地に降り立ったら 自分は……いや、簡単に思い通りになってたまるか!





シュー−ッ!
着いた。



ヒュウガは扉を開け、またもや乱暴にユイの身体を放り出した。地面に倒れる ユイ。

“シュ”
ヒュウガはユイの身体の上に片膝をつき、動けないように押さえつけ、刀を 抜いた。
刃に太陽の光が反射して、目の前の地面を明るく照らした。

ブチ、ブチ!
一応、約束は覚えていたらしい。
ヒュウガに手を縛っていた縄を切られた。猿轡も。
うつ伏せの状態でユイは肩をすくめ、身構えた。すぐさま戦えるように――。



え……?
何もされない。



ヒュウガはすでに立ち上がり、少し離れた所にいた。不機嫌そうな顔をして。

「貴方の持ち物です。持って行きなさい。どこへでも好きなところへ。」
不思議そうな顔をして立ち上がったユイに向かい、彼女の短刀を投げて よこした。
事態が全く飲み込めない。思わず言葉が口を衝いて出た。
「どう…して……?」

ヒュウガはふっと笑った。今までと変わらない冷酷な微笑み。人を斬る時 そのままの。
「何故か? ……気が変わったんですよ。薄汚れたシェバトの女なんぞ抱いたら 、こちらが汚れてしまいますからね。」

ユイは、そう言い放ったヒュウガの唇がボロボロに荒れているのに、 今更ながら気が付いた。いままでに、彼は人知れず唇を何度となく 噛み締めているのだろう。
心の中に強い不満を持つ者、何らかの理由で本心を隠し続けている者は、 知らずに唇を噛む癖が付く。また、噛むことで唇が荒れてカサつくため、唇を 舐める癖も付くのだ。

あれは癖だったのだ、ユイは全ての合点が行った。

この人は私を……。
この人の本質は……。



「私の気が変わらないうちに、さっさと行きなさい!!」
ヒュウガの言葉に、ユイはペコリと頭を下げると背を向けて歩き出した。





一言だけを言い残して……。

「また、逢えますね。」