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エピソード5.x(8)





「フェイ、シグルドを連れて行きましょう。若くん、後はお願いします。」
「シグを何処へ連れて行く気だ? 先生。」
「ラハンです。おそらく彼の治療は長くかかることでしょう。近くにいられる方が、私には何かと都合が良いので。」
「待ってくれ! 俺も連れて行ってくれ。」バルトが懇願する。

「若くん……。」シタンは一旦言葉を切り、バルトの顔を見た。兄弟の強い絆。そうだ。弟への想い故に、シグルドは奪われた記憶を取り戻したのだった。もう一度、それに賭けてみるか。
「……貴方がいた方が早く治るかもしれませんね。」

「爺、頼む。この通りだ。」
バルトは、メイソンに向かって深々と頭を下げた。アヴェを統治してからの初めてのわがまま。統治者として、常に自分の事を後回しにしてきた。しかし、せめて今回だけは、肉親の事を優先させて欲しい。バルトの眼はそう語っていた。

「承知いたしました。若がそこまで言われるのであれば、爺は何も言うことはございません。全てこの爺めが上手くやっておきますぞ。若は何も気になさらず、シグルド殿の治療に専念されて下さい。」
メイソンは誇らしげに胸を張った。

「じゃ、行ってくるぜ。」



ラハン村。

シタンが到着するなり切り出した。
「フェイ。誠に申し訳ありませんが、シグルトの治療の為に、貴方の家を使わせて頂けますか?」
「何故だい? 先生。」
フェイが問う。当然だ。

「うちには小さな子供がいるものですから、彼のあの状態をなるべく見せたくないんですよ。」
シタンの言葉は説明になっているとは言い難かったが、フェイは言外に言われたことも理解した。
「分かったよ。先生。」ぽんとシタンの肩を叩いた。

ミドリにはテレパシー能力があり、物言わぬ動物とさえ意志を通じることが出来る。また、口には出さないが、回りの人間の思考も時として読んでしまうことがあるらしい。父親に懐かないのも、彼のその裏に隠されていた過去と苦悩を読み取ってしまったためと思われる。そんな彼女がシグルドの異常心理に長い間さらされ続けたら……その影響を受けて精神に異常を来さないとも限らない。それだけ彼女はまだ幼い。シタンは父親として、それを恐れたのだ。何事もなく、すくすくと育って欲しい……親なら当然の願いであろう。



「ちょっと狭いけど、ここでいいかい?」
物置として使われていた部屋。小さな窓が一つ。

「充分です。あくまで良くなるまでの仮の部屋ですから。あ、フェイ。壁に穴を空けてもいいですか?」
「いいけど。どうして?」
フェイの問いに、シタンは言いにくそうに答える。
「……拘束具を取り付ける必要があるので。」

隣で黙って聞いていたバルトが大声を上げた。
「なんだってぇ! 先生、正気か?」
「私は正気です。今は大人しいかもしれませんが、ひとたび禁断症状が出れば、シグルドは必ず大暴れしますから。」
興奮のあまり、シタンの胸座を掴み捻りあげる。

「だからといって、鎖で縛り付けることはねーだろ! 先生、それでも人間か!」
シタンが憎いわけではない。ただただ、兄を大切に思っているだけなのだ、この弟は。
シタンは冷静にバルトの腕を払い、乱れた衣服を整える。
「若くんがそこまで言うのなら、鎖を付けるのを止めましょう。ただし、彼が暴れるようなら実行します。いいですね。」



空気が動かない―――。永遠に続くのかと思われる静寂―――。

シグルドは壁によりかかったまま座っている。開いているだけで何も見ていない左目。
「シグ。」
バルトはそっと近づき、その名を呼んでみる。
もう一度名を呼び、肩を掴んで揺さぶってみる。
―――何の反応も無い。

エリィの命を狙ったときの激しさが嘘のようだ。

「シグ……。」
褐色の頬に触れてみる。そして、いつも自分を叱り付けてくれた口、厳しいながらも常に暖かく自分を見続けていた瞳へ。今はまるで――彫像の様だ。

“ポトリ”

バルトは両の眼から大粒の涙を溢した。
「ちっくしょう……。」
ゴシゴシと両目を擦る。両親を亡くして以来、流したことのない涙。そんなものは、当の昔に捨てたものだ。

それに、シグルドはいつも言っていた。王たるものは泣くものではない、と。苦しいときは笑ってしまえ。諦めるんじゃない。カラ元気でもいいから、明るく振る舞え。お前は常に最良のことを考えそれに向かって努力しろ、最悪のことは俺が考えるから、と。
シグルドの教育が良過ぎて、やや楽天家になってしまったきらいはあるが、バルトはいつもそうしてきた。だが……。

「情けねぇな、こんなことぐらいで。」
ぐちゅっと鼻を啜り、バルトは部屋を出た。



“パタン”

扉の向こう側には、フェイとシタンが立っていた。何も言わなくても、2人の眼を見れば何を言いたいかは分かる。
“バルト、大丈夫か?”
バルトは苦笑気味ではあるが笑ってみせた。
“ああ……大丈夫さ。こんなことぐらいで、参ったりしねぇよ。”
けれども、かなり憔悴しているのが見て取れた。

苦笑気味のバルトの眼差しが、鋭い物に変わる。
「先生! 俺はずっと中にいてもいいか? シグの側に居てやりたいんだ。」
「バルト……。」フェイは言葉を続けられなかった。

「まあいいでしょう。貴方が耐えられるのなら、止めませんよ。ただし、武器は必ず携帯して下さい。」
「シグを鞭打てとでも言うのか?」
「いざという時の話です。彼は拘束具を付けていない自由な状態なんですから、彼を素手で取り押さえるのは無理です。」
確かにそうだ。あの時も、メイソンの助けがなかったら、どうなっていたことか。

「貴方にも危害を与える恐れがあるので、くれぐれも素手で立ち向かうようなことだけはしないで下さい。そして、彼が暴れ出したらこれを与えて下さい。」
「何だコレ。」
バルトが、シタンから手渡されたものをしみじみと見る。まさか……な。

「ドライブです。今まで与えられ続けたものよりは弱い物です。それでも、結構強力なので、間違っても自分に打たない様にして下さい。」
「何考えてんだよ、先生。シグのドライブ中毒を治すはずじゃなかったのか?」
再びバルトが声を荒げる。この人の考えていることが分からない。この人は、シグの友人ではなかったのか?

「彼に与えるか、与えないかは貴方自身で判断して下さい。」
シタンはあくまで冷静だった。腹が立つほどに。



その夜、シタンは自宅に戻った。

長い長い一日だった。フェイとエリィも眠りに就いた。しかしバルトは……?



大きな身体を小さく丸めるように眠るシグルドの隣で、バルトも横になった。

「シグ……。」
返事の無いシグルドの横顔を見て、再び呟く。
「あの頃と逆になっちまったなぁ。シグ……。」



真夜中―――。
エリィは目を覚ました。何かがおかしい。彼女は耳を澄ました。

“ギシ……”

“ギシ……”

音は微かだが、確実にこちらに近づいてくる。

「……フェイ……ねぇ、フェイ。」
フェイは熟睡している。
その間にも足音は近づいてくる。ドアの前で足音は止まった。

“カチャ”
ノブが回った。ドアが開く。
「誰なの?」
背の高い男。暗くて顔は見えない。こちらをじっと窺っている。

「誰!!」彼女は怒鳴った。
男はドアを閉め、去って行った。
「うん? エリィ、どうした。」
エリィは、フェイに今起きたことを手短に話し、2人で玄関に向かう。

鍵は閉まっている。賊は外から侵入したわけではないのか? だとすると賊はシグルドだったのか? シグルドとバルトのいる部屋に向かう。
特に変わったところはない。2人ともよく眠っている。
「エリィ。きっと悪い夢を見たんだよ。さあ、寝よ寝よ。」
フェイはさっさと寝室に向かった。



翌日。

「様子はどうですか?」シタンが訪ねてきた。
「特に変わったことはなかったよ。ただ……。」
「ただ?」
「いや、なんでもないんだ。」
あれはエリィの夢だったんだ、フェイはそう思いシタンに報告するのを止めた。



「ぐ……うう。」
「どうした? 苦しいのか?」
シグルドは答えない。ひたすら苦しみ続ける。

頭を抱え、床に跪く―――。

両手を床に付き、爪を立てる―――。

荒い息を吐き、壁を殴り始めた―――。

“貴方にも危害を与える恐れがあるので、くれぐれも素手で立ち向かうようなことだけはしないで下さい。”
シグルドのあまりの苦しみ様に、バルトはシタンの注意を忘れてしまっていた。
「シグ、止せ。」
バルトは、シグルドの背中から抱きかかえるようにして、彼を止めようとしたのだ。

「よ……こ……せ………。」

シグルドがゆっくりと振り向き、初めてバルトの顔を見た。バルトの背中に冷たい物が走る。正気じゃない! シグルドの眼は血走り、ギラギラと異様な光を放っていた。
あっという間にバルトはシグルドに捕まり、壁に叩き付けられた。

「よ……こ……せ………。」

どすんどすんと壁に何度も叩き付けられる。身体から力が抜け、意識が朦朧としてきた。



騒ぎを聞いたフェイとシタンが駆けつけてきた。シタンはポケットから予備のドライブを取り出すと、素早くシグルドに打った。シグルドは幸せそうな表情を浮かべ、そのまま壁に寄りかかるように座った。



「バルト、しっかりしろ。」
フェイに呼びかけられて、バルトがヨロヨロと起き上がった。こめかみから血が流れている。

シタンがため息を一つ。

「貴方の傷の具合を見なければいけませんね。ちょっと来て下さい。」
「でもシグが。」
「しばらくは大人しくしていますよ。とにかく、貴方は頭を打っているんですから、検査をしてみないと。」
バルトは連れて行かれた。

シグルドは動かない。幸せそうな表情を浮かべたまま―――。



シタンがバルトの頭に包帯を巻く。
「若くん。これで分かったでしょう。今のシグルドは普通ではないんです。次は気を付けて下さい。」
バルトは力なく頷いた。

「先生……あのドライブはいったい何だ?」
「鎮静剤の要素が強い物です。あまり利口な方法ではありませんがね、ドライブ投与を中止したときの反動に多分耐えられないと思われたので。下手をすれば、本当に狂ってしまいますしね。」
バルトは返す言葉を見つけられなかった。

「徐々に投与するドライブを弱い物に変えていく予定です。あまり急いではいけませんよ。若くん。」



「シグ……」
昼間の騒ぎが嘘のようだ。昨日との違いは、バルトの頭に巻かれている包帯だけ。それだけが、今日のことが夢ではなく現実に起きたことであると物語っていた。

「シグ。おやすみ。」