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ゼプツェン(3)



あれから4年。

研究は着実に進んでいた。

始めは小さな生き物だった……。
私は、その脳髄と神経組織を取り出し、機械に組み込んだ。
それが最初の試作機だった。
抜け殻の瞳が……もう光を映すことの無い瞳が私を責めているように、私には 見えた。

望まなかったのにも関わらず、実験は成功。

その小さき生き物は、試作機の中で生き続けたのだ。無残に 引き裂かれたままで。
それは異様な姿だった。
手とも足とも言えない触手を器用に使って、私の目の前で動き回っていた。 まだ生きているぞ、とでも言うように。

――仮に口があったら何と言ったのだろうか。

試作機はソラリスの科学者に持っていかれてしまった。様々な実験が 行われた後、おそらくバラバラに分解されてしまったのだろう。
私の手元に残ったのは、脳髄を抜き取られた抜け殻だけ。
“抜け殻”という意味では私も同じなのかもしれない。
科学者としての自信も誇りも、そして信条も、みな失ってしまった。 残っているのは妻のクラウディアと娘のマリア。

彼女達のためだけに私は生きている。しかし……。



「あなた。」

「あなた!!」

「えっ?」
「どうしたの? ぼーっとして。」クラウディアがニコラの顔を覗き込んだ。
「いや、何でもないんだ。」ニコラは微かに首を振った。

「何でもないって顔じゃないわよ。」
「いや、本当に何でもないんだ。」
「本当に? 何でもないの? 最近、あまり眠っていないみたいだし、 寝たと思えばうなされてばかりいるし。一人で悩みを抱え込まないで、私に 話して!」
「うるさいなっ。本当に何でもないんだっ!」

バシッ!

「あなた……?」
クラウディアが頬を押さえ、驚いたように問い掛けた。彼女の左頬はわずかに 赤くなっていた。未だかつて無かったこと。ニコラは我に返って、妻を両手で 抱きしめた。
「すまない……こんなことをするつもりじゃなかったんだ。」
「どうしたの? 教えて。」
ニコラの身体がわずかに震えていた。
「恐ろしいんだ……。」
「恐ろしい?」

ニコラがどんな研究をさせられているかは、クラウディアもよく知っている。 そのために自分たちはここに閉じ込められているのだ。人質として。
研究も着実に成果を上げていることも知っている。と、すると……。

「研究は最終段階に差し掛かっている。そのうち、ヒトの身体にメスを 入れることになるだろう。」
ヒトの身体にメスを入れる……とうとう、ヒトを機械に組み込む段階に 来てしまったのか。ニコラにとって、それはどんなにか辛いことだろう。 クラウディアは心を痛めた。

「でも……あなたじゃなくても、きっと別の誰かがやらされていたわ。」
気休めにも、慰めにもならないことは分かっている。が、彼女は言わずには いられなかった。
「本当に恐ろしいのは自分さ。だんだん、何をしても、どんなむごい実験を しても、何の良心の呵責も感じなくなっている自分が、一番恐ろしいんだ。」

そういえば、ここに来たばかりの頃は、部屋に戻ってきては、げぇっげぇっと、 よく吐き戻していた。食べ物は、ほとんど喉を通らない様だった。 しばらくすると、徐々にその回数は減っていった。
しかし、その代わりなのかは分からないが、最近はうなされている回数が 増えてきた。それでも、何も感じなくなってきたとこの人は言う。 このままでは、この人の心は壊れてしまう……。

「あなた、今日はもう寝ましょう。」
とりあえず、こう言うのが精一杯のクラウディアであった。





う……。

うう……。

ああ……。

また、うなされている。
クラウディアは天井を見つめた。

このままでは、私達家族に未来など無い。特にマリアには、こんな環境で 育って欲しくない。こんな非人間的な……。いずれこの子が大きくなって、 父がしていることを知ればなんと思うだろう。研究が完成すれば、私達だって どうなるか分からない。それに、私達だけでなく、研究の完成によって、 これからどれだけの人間がソラリスの犠牲になることだろう。ああ、 どうすれば……。

私の命一つで救われるものならば、いつだって。ああ、神様……。


私の……。


私?


そうだ!

そうよ。データは残っているはずだし、多分、大丈夫。絶対に大丈夫。うん、 大丈夫。絶対に上手く行くわ。


クラウディアは起き上がり、傍らでかわいい寝息を立てているマリアの顔に 語りかけた。

「家族みんなで、ここ(ソラリス)を出ましょう。幸せになるのよ……マリア。」





翌日

「あなた。」
クラウディアは努めて明るい声で言った。
相変わらずニコラは暗い顔をしている。

クラウディアはさりげなく1枚の紙切れをニコラに渡した。昨夜、彼女が 書いたものだ。
『言葉』で伝えるわけにはいかない内容。どこに盗聴器が仕掛けられているか 分からないからだ。監視カメラはニコラがその存在に気付き、ソラリスに 取り外させたが。

それを受け取り、黙って読み進めるニコラ。やがて、その両手はぷるぷると 震え始めた。
「私に、こんなことをやれと言うのかっ!」思わずニコラが怒鳴った。
「あら。いずれは、誰かが犠牲になるのよ。」クラウディアはあっけらかんと 答えた。
その顔は、ここに来てから初めて見せる心からの笑顔だった。

「しかし……。」その顔を見て、ニコラは全てを悟った。それしか方法は 無いのかもしれない。

「それに死ぬわけじゃないのよ。ね、あなた。」彼女は片目でウィンクをした。
確かに死ぬわけじゃない。死なせてたまるものか。自分の科学者としての 誇りをかけて。だが、やり切れないものが残る。

「……マリアを抱くことが出来なくなるよ。」
「構わないわ。その代わり、いつも側で守ってあげることが出来るから。そうでしょう。」
「………。」
彼女の決心は固い。このままでも、お互い地獄を見るだけだ。ならば、私が 罪人(つみびと)となろう。マリアには一切知らせずに……。マリアは何も 知らず、幸せになって欲しい。

「……分かった。じゃ、続きは今晩にでも。」
「ねえ。今日から、助手として使ってもらえる?」
「そうだな。そのほうが何かと都合がいいし。“基礎データを取るため”と でも言えば、ソラリス側も納得するだろう。ついておいで。」

この日、クラウディアはマリアをつれて、初めて「部屋」を出た。





「本当に後悔はしないのかい?」ニコラが困った顔をして念を押した。

クラウディアは返事の代わりに、ニッコリと微笑んで見せた。その笑顔は 非常に美しかった、まるで、二人が初めて結ばれた「あの日」の様に。 ただ、場所が不似合いなだけで。

場所は、真っ白なシーツがひかれた実験台の上。身体中に配線を繋げられ、 その先には脳、心臓、四肢の筋肉の動きを示す様々な計測器が繋がれている。
彼女の座ったイスは、ギア制御システムのシミュレーション用に、 ニコラ自身が自分の手で開発したものであった。これで、ヒトから様々な データを取っているのである。“組み込んだ状態”を想定して。

今までにも、彼女は何度もこのイスに座った。だが、それも今日が最後……。



「さあ、これをはめてごらん。」
長いキスの後、ニコラはクラウディアにそっと酸素マスクを差し出した。 それと、麻酔薬の入った注射。

ううん、とクラウディアは首を横に振った。
なぜ、と問い掛けるニコラに対して、彼女は笑って答えた。

「あなたをギリギリまで見ていたいの。」

――最後の瞬間まで――ヒトとしての最後まで――



――麻酔をかけないと、痛みとショックで死んでしまうよ――

――ううん、大丈夫よ――

――どうしてそう言い切れるんだい?――

――マリアがいるから――

――生きながら切り刻まれてしまうんだよ?――

――あの子がいるかぎり、死んだりはしないわ――



――絶対に――