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機密事項





……チチチ……
……ピィー……チチチ……
……チュチュ……チュンチュン……

澄んだ空気。暖かい光。小鳥達のさえずり。

「よーし。よし。」
フェイは朝の日差しの中、“さい”の子どもにえさをやっていた。
「旨いか?」
“さい”の子はちぎれんばかりにしっぽを振って、皿の中のごちそうを平らげていた。

“さい”は普通、ヒトに懐かない。きっかけは、山道でケガをしていたところを フェイが拾ったことだった。



……ク……キューン……
……キュウン……キュウーン……

「ん?」
橋の上に差し掛かったフェイは、辺りを見回した。

……キュウン……キュウーン……

「あれ?」
鳴き声が聞える。

……きゅうん……キュウン……

「下から?」
橋から身を乗り出すと、崖下に茶色の何かが見えた――“さい”だ。



「おい? どうした?」
フェイは橋を渡り、“さい”の元に駆け寄った。まだ子どもの“さい”だった。 普通、“さい”はヒトに懐かない。しかし、“さい”の子は身を伏せて哀れっぽく 鳴いていた。上目遣いの眼。たまらず、フェイが抱き上げようとしたところ、

ギャーーン!
“さい”の子が悲鳴をあげた。
見ると、脚が2本、ぶらんと垂れ下がっている。折れているようだ。全身も 土埃で汚れている。どうやら、崖から落ちて動けなくなっていたらしい。

「ごめんよ。今、先生の所に連れて行くからな。痛いけど我慢しろよ。」
最初は痛みのため歯をむき出し怒っていた“さい”の子だが、フェイの腕の 暖かさに耳を垂れ、身体を丸くして大人しく眼をつぶった。



「フェイ。私は獣医ではありませんよ。」
「先生。先生なら治せるだろ? おばさんとこの牛の病気を治した時みたいにさ。」
「あの時は、たまたま薬が効いただけで……まあ、いいでしょう。 私に見せて下さい。」

この子は傷ついた者に手を差し伸べた。

シタンは、今のフェイが“アーネンエルベ”となりうる資質を持つかを、 確認するいい機会と判断したのだ。
これが、単なる気まぐれではなくフェイ本来の気質ならば良いが、シタンは そう考えていた。最後まで面倒を見ることができれば、命の重さ、尊さも 理解できるだろう。さらに、自分以外の他者との関わり方も知ることだろう。

「どれ、診てみましょう。」
フェイの胸に抱かれ、診察台に載せられたまでは、“さい”の子は 大人しくしていた。しかし、シタンと目が合った途端、“さい”の子は毛を 逆立て、唸り声を上げて威嚇の態度を取った。

「おい、先生はお前を治してくれるんだぞ。大人しくしろ。」
フェイがたしなめても、“さい”の子はシタンに対する威嚇を止めない。
「構いませんよ。もともと“さい”は、ヒトには懐きませんからね。はは。」
動物に感づかれるようでは、私の善人ぶりもまだまだだな。シタンは心の中で 苦笑していた。

「フェイ。この“さい”をどこで拾いましたか?」
シタンは触診を行いながら、フェイに拾った時の様子を事細かに尋ねた。

「口、耳からの出血および体液の流出はなし。内臓にも異常な腫れは ないようですね。至る所に打ち身はあるようですが、私に吠え掛かる元気が あるならば大丈夫でしょう。骨折も2ヶ所で済んだみたいですし。 動けないところをフェイに拾われるなんて、本当に運の良い。 フェイに感謝するんですよ。」
聞いていて、フェイはくすぐったかった。

シタンは、折れた足に添え木をあて、包帯を巻く。

「ところでフェイ。この“さい”をどうしますか?」
「そうだな……。」
“さい”の子と目が合った。“私を助けて”……フェイには、 縋るような“さい”の子の眼がそう言っているように見えた。何故だか 分からないが、シタンに対し怯えているようだった。

「先生。連れ帰って、俺が育てても大丈夫なの?」
「ええ。処置は終わりましたから、骨折だけなら貴方の家でも問題ありませんよ。」
シタンは、包帯を巻き終えて、無意識に“さい”の子の背中を叩いた。

かぷ。
「いっ!」
“さい”の子はシタンの手に噛み付いた。

シタンが向いた途端、“さい”の子はまるで雷に撃たれたようにシタンの手を 放した。
シタンはにっこりと笑う。
「野生動物には、こういうところがありますからね。飼うのなら、充分、 この点に注意しないと。ははは。」
「?」
フェイは眼が点になっていた。



フェイが連れ帰った“さい”の子は、まるで実の兄弟のようにフェイに懐いた。 フェイにも両親はいない。“さい”の子は、そんなフェイの淋しさを感じ取って いたようだった。
“さい”の子が元気になっていくにつれて、フェイの心の傷も薄れて行った。 相変わらず両親もいない。記憶も全くない。その事実は変わらないが、フェイは あまり気にしなくなった。そして、進んで、ティモシーや、アルルや、 その他の村の人達とも打ち解けるようになった。
シタンの狙い通り、フェイは“さい”の子との触れ合いを通して、他人との 関わり方の初歩を学んだのだった。もちろん、シタンやリー村長の助けもあるが。



「やっと添え木もとれたことだし、もうじき山に帰れるな。良かったな。」
ご飯にぱくついている“さい”の子に向って、フェイは嬉しそうに話し掛けていた。

ピタ
ちぎれんばかりに振っていたしっぽが急に止まった。

「おい、どうした?」

……ウウ……ウウウウ……
“さい”の子は喉の奥で低く唸り始めた。近くの茂みに向って。

「そっちには何もないよ。」

……ウウ……ウウウウ……
「気にするなって。何もないからさ。」

ウウ、ガウッ!
“さい”の子は身を低く構え、勢い良く茂みの中に飛び込んだ。

ガサッ、ガサガサ!
ガサガサガサッ、ガサッ!

シーン……

急に静かになった。

「おいっ! どうした?」

……く……キューン……
茂みを掻き分けたフェイの目に飛び込んだものは、力なく倒れている “さい”の子の姿だった。
「おいっ!」
フェイが抱き上げると、“さい”の子は嬉しそうに眼を開け、また閉じた。

ぶくっ
ぶくぶく……。
口から泡が吹き出し、流れて落ちた。
「先生の所まで連れて行くからな。しっかりしろっ。」





「先生っ。」
フェイが勢い良く飛び込んできた。

「フェイ。またですか?」
シタンは振り向き、フェイが“さい”の子を抱えているのを見て、 呆れたように言った。

「とにかく診てくれよ。茂みに飛び込んだと思ったら、奥で倒れたんだ。」
「茂みに……?」
シタンの表情がにわかに険しくなった。
「うん。茂みに向って妙に唸ったと思ったら……。先生! とにかく早く!」
「おかしなこともあるものですね。分かりました。診てみましょう。フェイ。 そこに寝かせて下さい。」
シタンは“さい”の身体を触った。かなりの熱がある。息も荒い。 一刻を争うようである。

診る限り急病のようだな。しかし、昨日添え木を取った時には、そんな兆候は 微塵も見られなかった。辻褄が合わない。こいつは、何のために茂みに 飛び込んだのか? 何を感じた? ――まさか!

“さい”の子の身体を調べていた指先に、異物が触れた。
「うん?」
シタンは“さい”の子の身体から、小さな針を抜き取った。5ミリほどの 小さな針。植物の刺(とげ)に似せてはあるが、明らかに人工的なもの。

やはりソラリス製の針か。中身は……麻酔のはずはないな。彼らが そんな回りくどい方法を取るはずがない。とすると中身は最新の毒物か。 既知の毒物ならば、私がすぐに解毒剤を処方するからな。しかし、 今から成分を分析していて、間に合うのか? いや、間に合わなくてもいい。 だが、“フェイ”の身に万が一の事があった時のために、解毒剤を作る必要が ある。間に合わなくても、こいつの死は、おそらく自然死にしか 見えないだろう。当然だな。なら、死んだとしても、フェイに対して 誤魔化すのは簡単なことだ。

「先生?」フェイが心配げに見やる。

問題なのは、――狙われたのはフェイ――だということだ。一刻も早く 手を打たねば。

「う〜ん。分かりません。これはただの刺(とげ)のようですし。多分、 隠れていた病気が今になって出たのかもしれませんね。」
「そんな馬鹿な。さっきまで元気だったんだよ。きっと何かあるはずだよ。 よく調べてくれよ。」
フェイが食い下がる。

貴方は知らない方がいい。こいつは命を懸けて貴方を助けたのだから。 シタンは沈黙の中、そう考えていた。

「……いずれにせよ、今晩が峠となりそうです。フェイ。申し訳ありませんが、 ずっとそばについていてもらえますか? 私は薬を調合したり色々とするので、 さすがにずっとというわけにはいかないのですよ。」
「分かった。」
「貴方の分の食事の仕度もユイに頼んでおきますから、何かあったら呼んで 下さい。」
シタンは部屋を後にした。

残されたフェイが“さい”に話し掛ける。
「がんばれよ。早く良くなって、一緒に山に行こうな。」