TOPへ戻る 目次へ戻る

前夜





“カラン”

真夜中、男が1人グラスを傾ける。

「いよいよ明日か……。光陰矢のごとしとは良く言ったものですね。」
男の名はシタン。家族と一緒にニサンに来ている。
「出会った頃のことが昨日の様なのに。思えばあの頃が一番楽しかったなあ……。」



“トントン”

こんな夜更けに誰だろう、シタンが扉を開けた。

「エリィ? どうしたんですか?」
エリィの表情が暗い。何か悩んでいるようである。
「なんだか眠れなくて。話し相手になっていただけますか?」
「構いませんが……。」



「どうぞ。」
シタンに勧められ、エリィが腰掛ける。
「お酒、飲んでいたんですか?」
彼女が上目遣いでシタンを見やる。薄暗くて彼の表情はよく見えない。

「私だって、飲みたい時もありますよ。」
「もしかして明日のせい、ですか?」
「そうとも言えますか…ね。」
「ごめんなさい……。」

シタンがエリィに優しく微笑みかけた。
「エリィ、貴方が謝る必要などありませんよ。あなた方は元々結ばれる運命ですから。その間には、誰も入り込む事は出来ません。あのカレルレンでさえもね、そうでしょう。」
「でも……。」
「私のことはご心配なく。貴方が気にすることはありません。フェイは何も知らない、それでいいんですよ。それで……。」
シタンが遠くを見る。まるで今までのことを振り返るかのように。



「そういえば、前にもこんなことがありましたね。」シタンが話題を切り替えた。
「たしか、黒月の森で。あれが最初でした。」
「そうですね。あの時は2度と会うこともあるまいと思いましたが。その後、貴方は軍を離れるどころか、フェイと共に渦の中心に巻き込まれていった。神の望みのままにね。」

「本当は逃げ出したかったんです。何も知りたくありませんでした。」
「そうでしょう。天帝から貴方の事を知らされていなかったので、何度か我々から引き離そうとしたんですが。流石に運命には勝てませんでしたね。エリィ、どうしたんですか?」
エリィが下を向いて黙り込んだ。沈黙。

「先生……。私、恐いんです。私の気持ちがデウスに植え付けられたものの様な気がして。本当は違うんじゃないかって思ったりするんです。」
シタンは一瞬眼鏡に手を当てて、落ち着いた声で話し始めた。

「そんなことはありませんよ。貴方はフェイ……イドの暴走を身を挺して止めた。下手をすればイドに殺されてしまったかもしれないのに。それは誰のためだったんですか?」
エリィは黙っている。シタンは続けた。

「フェイのためでしょう? フェイが人を殺めるところを見たくなかった。そうでしょう。貴方はいつの時代でも、その名は違っていてもフェイのために命を懸けた。その辺りのことはフェイから聞いていますよ。」
「でも……。」

「考えてもご覧なさい。貴方がデウス復活の為の、単なる部品だったら何が起こっても生き残ることを選ぶべきでしょう。貴方は“母”なのだから。死んでしまうとデウス復活がそれだけ遅れるわけですからね。なのに、貴方はフェイを守る為に死も辞さなかった。それは貴方が“ヒト”だからですよ。“部品”ではなく“ヒト”。それは分かりますよね。」
「ええ。」

「“ヒト”としてフェイのことを大切に思う。それでいいじゃないですか。ね、エリィ。」
「はい、先生。」エリィが肯いた。迷いが解けたのか、その表情は晴れやかだった。

「それにしても、まるっきり別人のようですねぇ。」
「え? 何がですか?」エリィが笑みをこぼす。
「フェイを連れてシェバトを出ようとした時の貴方ですよ。私に向かって何て言ったか覚えていますか?」
「えっと………。」彼女は考え込んだ。本当に思い出せないようである。

そんな彼女を見て、シタンはくすくすと笑いながら言ってみせた。
「“止めても無駄ですよ。邪魔をするならたとえあなただろうと……”とね。」
「え!! 本当にそんなとを言ったんですか? 先生に向かって?」エリィが顔を赤くする。

「そうですよ。私を殺してでもフェイを逃がそう、という悲壮な決意が貴方から感じられました。あの時の貴方には先ほどの様な迷いは微塵も見られませんでしたよ。」
「先生を殺すだなんて、そんなこと出来っこないのに……。」エリィは小さくなっている。

「それだけ必死だったんでしょう。脱出できなければ、翌日にはフェイはカーボナイト凍結。なのに私に見つかってしまった。凍結決定の最後のひと押しをした人物にね。」
シタンはまだ笑っている。どうやらエリィをからかっているようだ。

「なんなら今からその続きをしますか?」
「い、いえ遠慮します。どうあがいたって先生に勝てっこないもの。」
「そうですね。実力なら私の方が上。でも一つだけ、貴方に勝てないものがありますよ。私としてはそれが手に入れば、他には何も要らなかったんですけどね。」
「シタン先生……。」

シタンが立ち上がった。エリィに近づいてくる。大きい……。大人の男性とはこんなにも大きかったのか。そんなことを考えながら、彼女は自分のすぐ側に立つ男性をぼんやりと見上げていた。男性は彼女に覆い被さるように身を屈め、両手を伸ばし……。

“がしっ”

彼女の両肩を掴んだ。
「エリィ、そろそろ戻りなさい。こんな真夜中に男の部屋に来て、無事に帰れる方が希なんですよ。何も起こらないうちに。さあ。」

「? 先生が何かするんですか?」
シタンは額に手を当て、天を仰いだ。
「まったく。フェイといい貴方といい、疑うということを知らないんですか。」
エリィはのほほんとした顔をしている。そんなところがフェイそっくりだ。

「私にとって、今が最後のチャンスなんですよ。愛しい人を恋敵に取られない為のね。」
相変わらずエリィは何を言われているのか分かっていない。心底シタンを信じているようである。参りましたね、ここまで信用されていると、シタンは小さなため息をついた。
それから両膝を付いて、エリィに軽いキスをした。

「とにかく、今日はゆっくり休みなさい。せっかくの晴れの日に花嫁が寝不足では、冗談にもなりませんよ。」
「ふふ。そうですね。おやすみなさい、先生。」
「おやすみなさい、エリィ。」





この2人は最後まで世話が焼けますね。
今度こそ幸せにおなりなさい。