ゼプツェン(1)
「ほぎゃあ。ほぎゃあ。ほぎゃあ……。」
「生まれたのかっ?!」
父親が、たまらず部屋の中に飛び込んできた。
「おめでとうございます。可愛らしい女の子ですよ。」
「そうか……。」
彼は産湯に浸かっている我が子を確認すると、妻が横たわっているベッドに
近づいた。
「可愛い子だよ。よく頑張ったね。」
「あなた……。」
彼は喜びのあまり妻の身体を抱きしめようとした。
「あ、まだ抱き起こしてはいけません!」
「ああ。これはすみません。」
彼は代わりに彼女の手を握り締めた。
「良かった。なかなか生まれなかったから心配したよ。」
「腕は? あの子の身体は?」
彼女はすがるような目をして夫に尋ねた。
「大丈夫ですよ。五体満足。とても元気な赤ちゃんです。ほらね。」
赤ん坊を抱えた看護婦が代わりに答えた。
「ほぎゃあ。ほぎゃあ。」
赤ん坊はタオルの中で元気に手足を動かしていた。
「どうぞ。抱っこしてみて下さい。あ、まだ首が据わっていませんから、
左手で頭と首を支えるようにして下さい。」
ニコラは看護婦から赤ん坊を受け取ると、おっかなびっくり抱き上げた。
それを心配そうに見つめるクラウディア。
「本当に可愛い子だ。ほら、よくみてごらん。」
「本当……。」
彼女は目を細めて我が子の顔を見た。そして手を伸ばし、我が子の頭を
撫でてやった。
「ほぎゃあ。ほぎゃあ。ほぎゃあ。」
「よしよし。生まれたばかりというのに、何がそんなに悲しいの?」
「違うよクラウディア。これは喜びの涙だよ。『生まれてきて良かった』
『生んでくれてありがとう』って泣いているんだよ。」
「良かった……。」
張り詰めていたものが切れたのか、彼女の目から大きな粒が溢れた。
「この子の名前はどうする?」
「『マリア』。いい名前でしょう? この子の顔を見た途端、
思いついたの。」
「マリアか……いい名前だ。ようし、お前の名前はマリアだ。いい娘に
育つんだぞ。」
「さあさあ。奥様は大仕事を終えられたばかりで疲れてます。少し休ませて
あげないと。」
「そうですね。じゃあ、また来るよ。」
ニコラは赤ん坊を看護婦に渡すと扉を開け、妻の方に振り向いた。
「あ、そうだ。僕からも君にプレゼントがあるんだ。明日、来る時に
持ってくるよ。」
「なあに?」
「今は内緒だよ。楽しみにしておいで。」
ニコラは家に戻ると夢中で作りかけだった“ある物”を完成させた。
夜が明けたことさえも気付かずに。
「ほら、みてごらん。」
ニコラは銀色に輝く物体を取り出した。
「それ何?」
「君の左腕だよ。今は骨組みだけだから、分かり難いかも
しれないけどね。」
うぃ〜ん。うぃ〜ん。
ニコラはクラウディアの目の前で、義手の指を開いたり閉じたり
してみせた。
「なんだか気持ちが悪いわ。」
「そんなことを言わないでくれよ。これにプラスチックとシリコン樹脂で
出来た肌色のカバーを付けて、君の腕そっくりにしてみせる。君は自分の腕で、
マリアを抱くことができるんだ!」ニコラの瞳は輝いていた。
「本当にそんなことができるのかしら……。」
クラウディアは淋しそうに自分の左肩を見た。彼女の左の二の腕から先は、
生まれた時から無かったのである。
「僕に出来なかったことがあったかい?」ニコラは悪戯っぽく尋ねた。
ギア工学の権威。結婚後に脳神経の研究も始め、最近では脳神経機械学の
方面でも有名なのである。それは、一重に妻のためだとは知る由も無い
クラウディアだったが。
「ううん。」彼女が首を振った。
「そうだろう? 出来るんだよっ! 君さえその気になればいいのさ。」
ニコラはクラウディアの肩を抱き、彼女は力強く頷いた。
「でも、指とかどうやって動かすの? まさか右手でスイッチを押すわけじゃない
でしょうに。」
「もちろんさ。君は“掴みたい”という意志だけで、右手と同じように物を
掴んだり、持ち上げたりすることができるよ。そのベースとなる
神経伝達理論もとっくの昔に完成している。あとは実証するだけさ。」
「うふふ……。楽しみね。」ようやくクラウディアの顔から笑みがこぼれた。
ニコラは、ベッドの脇のゆりかごで眠っていたマリアを抱き上げた。
「マリア、お前のお母さんがやっとその気になってくれたよ。お前の
おかげだ。お前はいい子だ。」
「ほぎゃあ。ほぎゃあ。」マリアが泣き出した。
「おや……困ったな。」
「眠ってたところを急に起されてビックリしたのよね。おーよしよし。」
クラウディアは優しくマリアの頭を撫でてやった。
「でもね、右手だけでも結構なんとかなるものよ。」
クラウディアは、ニコラからマリアを受け取ると自分の肩に乗せるように
抱き上げ、ぽんぽんぽんと、なだめるようにマリアの背中を軽く
叩いてやった。マリアはそれで安心したのか、ようやく泣き止んだ。
「さすがは母親だね。」
「まかせてよ。」クラウディアは胸を張った。
「今はいいかもしれないけど、赤ん坊はすぐに大きくなるよ。」
ニコラの言葉に、彼女はクスリと笑った。
「片腕で支えきれなくなる前に、絶対に完成させてね。理論だけ
じゃなくて……ね。」
「もちろんさ。そのためにも君の脳波とか、右腕の筋肉と信号を伝える神経の
働きとか、その他諸々測定させてもらうよ。」
「こうなったからには、いくらでも付き合うわよ。マリアを抱けるように
なるまでね。」
二人は心から幸せを噛み締めていた。
「お目醒めかい?」
「もう、済んだの?」
「そうさ。起き上がってごらん。」
クラウディアはぎこちないしぐさで上半身を起した。
「……なんだか、左肩が重いわ。」
「君に左腕が出来たんだ。当たり前だよ。」ニコラはにこにこしている。
彼女は生まれて初めて自分の左手を見た。恐ろしいものでも見るように。
「これ……動かせるの?」
「そうだよ。まずは指を曲げてごらん。どの指でもいいから。右の指を
動かすように、ゆっくりとね。」
クラウディアとニコラの視線が、彼女の左手の指先に熱く注がれる。
だんだん彼女の顔が泣き出しそうになってくる。それでも指は動かない。
「……だめ。動かないわ。やっぱり無理なのよ。」
「結論を急いでは駄目だ。」
「無理なものは無理なのよ! いくらあなたが天才でも、出来ないものは
出来ないのよっ!」彼女はすっかり取り乱していた。
「いいかいクラウディア。マリアをよく見てみろ。」
ごきげんなのか、マリアはゆりかごの中でばぶぅ、ばぶぅと両手両足を
バタつかせていた。
「一見、無駄な動きにしか見えないだろう。まだ歩くどころか“ハイハイ”も
できないのだから。でもマリアの脳や神経にとって、あれは大切なことなんだ。
ああやって脳や神経、筋肉をどうやって動かせばいいのかを学習していくんだ。
君のお腹の中にいるときだって、同じように動き回っていたのを君も
感じていただろう?」
「それが、私とどういう関係が。」
「大ありだよ。君は生まれつき左腕に障害をもっていた。そのため、左腕に
相当する部分の脳神経が未発達なんだ。測定データもそれを証明して
くれている。すぐに動かなくても、ちっとも慌てることじゃない。」
「でも動かないのよ。動かせなければ神経も何も発達するわけ無いじゃない。」
「大丈夫、僕を信じて! まずは目をつぶって……深呼吸して……
気を楽に……。」
クラウディアは言われた通りにし、大きく深呼吸をした。
「何も考えずに意識を左手に集中するんだ。やりにくかったら、心の目で
左手を凝視する感じでいればいいよ。」
彼女は眉間にしわを寄せて意識を集中する。
「……なにか……暖かい……感じがする。……気のせいかしら。」
「気のせいなんかじゃないよ。他にも何かを感じないかい?」
「……何かが……手?……を締め付けているの?」
「その通り。じゃ、眼を開けてごらん。」
眼を開けると、ニコラが彼女の手をそっと握っていた。大きな暖かい手。
彼女は左手でそれを感じ取ることが出来たのだった。
「手と腕には小さな温感センサーと触感センサーを、あちこちに
埋め込んであるんだ。流石に本物と全く同じ感覚というわけではないけれど、
これでも自分の腕じゃないとでも言うのかい?」
「ううん。もう言わないわ。」彼女は首を振った。
「まずは、色々なものに触れさせてその感覚から養おう。時間はたっぷり
あるんだ。」
「そうね。でも、最初はこの“重さ”から慣れなきゃね。」
「かなり軽量化したつもりなんだけどなぁ。」
「おーお。よしよしいい子ね。」
クラウディアがマリアを抱いて部屋の中を歩いている。
それを嬉しそうに眺めるニコラ。
「大分抱き方が上手くなったね。」
「ええ。あなたのおかげよ。」クラウディアも嬉しそうである。
「でも、その癖だけは治らないみたいだね。」
「クセ?」彼女は首を傾げた。
「左手を握り締めたまま抱っこする、その癖だよ。」
「ああ、これ? だって握り潰しちゃったりしたら恐いんだもの。先に
握っておけば安心でしょ?」
「まだ、感覚が掴みきれていなかったのかい?」
「ほとんど大丈夫よ。ただ、柔らかいもの、脆いものが恐くて。たまに
落としたりもするし。」
「じゃあ、練習だな。」
「えー。まだするの?」
「もちろんさ。」
「どう?」
「これなら、大丈夫みたいだね。最後の課題はちょっと難しいぞ。最後の
課題は……これだ!」
「ぷっ。」
ニコラが紙袋から大袈裟に取り出した物体を見て、思わずクラウディアは
吹き出してしまった。
「あっ! 笑ったな。」
「だって……。」彼女はケタケタ笑っている。
彼が取り出した物体は………何と、“生卵”。
どんな難解なものが出てくるかと思えば、あまりにも身近過ぎるものだった。
「機械工学の中で、難しい課題の一つなんだぞ。丸いし脆いから、それぞれの
指の力加減とバランスがとても難しいんだ。指に触れた感覚でもって、指の
力とバランスを加減するんだ。これをA地点からB地点まで運び、B地点に
そっと置く。そして再び持ち上げてC地点で卵を割って、黄身を潰さずに
中身を出せたら卒業だ。もちろん、中身を出す時には右手も使っていいよ。
さあ、できるかな?」
「当然よ。」
さも当たり前のように、彼女は卵を握った。
「あ、あれ?」
グシャ!
卵は手の中であっさり割れてしまった。
「やっぱりできないじゃないか。」
「そんなことはないわよ。」
しかし彼女がムキになればなるほど、卵は手の中で割れるか、または
掴みきれずに手から転げ落ちるかを繰り返した。
「う〜ん。確かに難しいわね。でも、なんだか無駄の様な気がしない?」
「え? 何が。」
「この卵よ〜。あまり食べ物を粗末にしたらいけないと思うの。」
彼女は割れてしまった卵を見て、しばし考え込んでいる様子であった。
「よし!」
彼女はパチンと指を鳴らすと、卵が割れても良いように大き目の皿を下に
おいた。
「これでいくら割っても料理に使えるわ。どうやら今日は卵尽くしに
なりそうね。」
「それって……夕飯の話?」
ニコラの質問に、彼女はにっこり笑って返した。
「そうよ。これから当分の間、毎日卵尽くしになるんじゃないかしら。」
「うへぇ……。」
全く女って奴は……としみじみ思うニコラであった。
「今日こそ、出来る様になったところを見せるわよ。」
クラウディアは意気揚々と買い物から戻ってきた。
「ほんぎゃあっ! ほんぎゃあっ! ほんぎゃあっ!」
部屋の中はガランとしていて、ただマリアだけがけたたましく泣いていた。
「あれ?」
彼女は買い物カゴを置くと、泣いているマリアを抱き上げた。
「おぉよしよし。いい子ねぇマリアは。……それにしても、どこに
行っちゃったのかしら。マリアの事、頼んでおいたのに。」
でも、何かがおかしい。外出するのなら、鍵をかけて行くはずなのに。
その日、ニコラはついに戻らなかった。
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