翌日
「あなた。」
クラウディアは努めて明るい声で言った。
相変わらずニコラは暗い顔をしている。
クラウディアはさりげなく1枚の紙切れをニコラに渡した。昨夜、彼女が書いたものだ。
『言葉』で伝えるわけにはいかない内容。どこに盗聴器が仕掛けられているか分からないからだ。監視カメラはニコラがその存在に気付き、ソラリスに取り外させたが。
それを受け取り、黙って読み進めるニコラ。やがて、その両手はぷるぷると震え始めた。
「私に、こんなことをやれと言うのかっ!」思わずニコラが怒鳴った。
「あら。いずれは、誰かが犠牲になるのよ。」クラウディアはあっけらかんと答えた。
その顔は、ここに来てから初めて見せる心からの笑顔だった。
「しかし……。」その顔を見て、ニコラは全てを悟った。それしか方法は無いのかもしれない。
「それに死ぬわけじゃないのよ。ね、あなた。」彼女は片目でウィンクをした。
確かに死ぬわけじゃない。死なせてたまるものか。自分の科学者としての誇りをかけて。だが、やり切れないものが残る。
「……マリアを抱くことが出来なくなるよ。」
「構わないわ。その代わり、いつも側で守ってあげることが出来るから。そうでしょう。」
「………。」
彼女の決心は固い。このままでも、お互い地獄を見るだけだ。ならば、私が罪人(つみびと)となろう。マリアには一切知らせずに……。マリアは何も知らず、幸せになって欲しい。
「……分かった。じゃ、続きは今晩にでも。」
「ねえ。今日から、助手として使ってもらえる?」
「そうだな。そのほうが何かと都合がいいし。“基礎データを取るため”とでも言えば、ソラリス側も納得するだろう。ついておいで。」
この日、クラウディアはマリアをつれて、初めて「部屋」を出た。
「本当に後悔はしないのかい?」ニコラが困った顔をして念を押した。
クラウディアは返事の代わりに、ニッコリと微笑んで見せた。その笑顔は非常に美しかった、まるで、二人が初めて結ばれた日の様に。ただ、場所が不似合いなだけで。
場所は、真っ白なシーツがひかれた実験台の上。身体中に配線を繋げられ、その先には脳、心臓、四肢の筋肉の動きを示す様々な計測器が繋がれている。
彼女の座ったイスは、ギア制御システムのシミュレーション用に、ニコラ自身が自分の手で開発したものであった。これで、ヒトから様々なデータを取っているのである。“組み込んだ状態”を想定して。
今までにも、彼女は何度もこのイスに座った。だが、それも今日が最後……。
「さあ、これをはめてごらん。」
長いキスの後、ニコラはクラウディアにそっと酸素マスクを差し出した。それと、麻酔薬の入った注射。
ううん、とクラウディアは首を横に振った。
なぜ、と問い掛けるニコラに対して、彼女は笑って答えた。
「あなたをギリギリまで見ていたいの。」
――最後の瞬間まで――ヒトとしての最後まで――
――麻酔をかけないと、痛みとショックで死んでしまうよ――
――ううん、大丈夫よ――
――どうしてそう言い切れるんだい?――
――マリアがいるから――
――生きながら切り刻まれてしまうんだよ?――
――あの子がいるかぎり、死んだりはしないわ――
――絶対に――